昨日夜御飯食べたら寝てしまって、午前1時頃登校。ちまちまコード書いて、jmyron試してみた。多分27日のvjはこれで。画像解析とそれに対する反応を予めコーディングしておいて、何を映すかは現場次第という流れ。
昼過ぎに登校して美術情報学特論を聴講。今回は桂英史さんがゲスト。前半は芸大映像科の話や、メディア論て何?てなところ。
以下、桂節全開。
本は読むものだと思ってるでしょ。買うものだよ。
一冊の本というものはあり得ない。沢山あって「本」。本のことvolumeって言うでしょ。
少しでも気になったら買うこと。お金は何とかなる。
本が持ってるポテンシャルからすればgoogleなど大したことない。
政権が変わってからテレビで明らかに公共広告が増えた。つまりテレビ局は営業しなくても政府からお金が入ってくる。ということは報道が統制されてる可能性は十分にある。
日本のマスコミは守られてる。そのことは良い悪いでなく、特殊。特殊であることを認識した上で受容すること。
テレビでは「昨日〜観た?」という話ができるが本ではできない。テレビは「あの日のあの時間というのは何であったのか」を共有できるメディアである。
MRIは精神を科学で扱うという想像でしかなかったことを実証レベルにまで引き上げた革新的なメディアである。脳の構造を視覚的に知ることができる、得られたデータを元に薬を作ることができる、医者と患者がコミュニケートできるという面も持ち合わせている。
などなど。色々話が飛ぶしそれなりにまた突っ込んだ分析があるので記憶がついていかない。受容理論とか批判理論とかそういうの。
後半は彼が現在執筆している本について。美術の中での「本」に注目することで、その時代における本の役割や受け取られかた、また芸術家が何を思って本を作ったり本をモチーフにしてたのかを考察。
ダンテ「神曲」
ボッティチェリが挿絵を描いた。今まで一点ものを作ってきていた画家が印刷技術を用いて複製品を作ることに。その当時の芸術家の意識はどのように変容したか。
ダヴィンチ「受胎告知」
マリアが本を持つ右手が異常に長い話。定説としては、絵が掛けられていた教会の狭い入り口から眺めた時に正確に見えるようにしてあるのではないか、ということ。確かに斜めから見ると変じゃない。しかも正面から見ると中央に消失点があるのだが、斜めからだとそれが消えて人物の量感が強調される。肌の色や、光の加減もマリアとガブリエルでかなり違っていて、多分それも教会の建築構造に合わせて描かれたのではないかということ。クライアントの要求に応えつつ画家としてのチャレンジが相当行われている。つまり元々サイトスペシフィックなインスタレーション(建築構造との関連)だしメディアアート(視覚的なイリュージョン)。知の象徴としての本。
ボッティチェリ「書斎の聖アウグスティヌス」
この時代(1480-1481)にアウグスティヌス(354-430)は居ない。つまり創作。書斎(studio)が生まれたのがこの時期で、「個」という概念の始まり。書斎と聖人がモチーフの絵はほとんど一人しか描かれていない。元々書斎は客人に自分の知識水準を見せるためのものだった。ある絵ではライオンが描かれているらしく、それは「アフリカ文化を知ってますよ」という意味。複数の本が描かれているのは珍しいそうだ。ギリシャ聖人の顔ってイタリア人っぽいけど本当にそうなの!?とか。
他にもあったけどうまくまとめらんない。出版を待とう。あと、カタールの皇太子は自転車のコレクションをしてて、体育館みたいなところにもの凄い数の自転車があるとかいう話をしてた。手作りの一点ものからママチャリまであるらしい。絶滅危惧種のブリーディングもしてて、牧場みたいなところに見たことない鳥が動き回ってるんですって。個人のおたく的コレクションからパブリックなミュージアムを目指すらしい。
メディアとそれの体験年齢みたいな話もしてて、面白かった。最近すごくよく考える。団塊世代がオリンピックをテレビなしで応援してた世代。関口さんや桂さんが辛うじて物心ついた時にテレビがあった世代。明和電機が作ったチャンネルひねるリモコンは今の高校生には全く通じないらしい。藤幡正樹って生きてるんですか?って聞いた奴がいるらしい。
jamesは混乱したり思考を分断されたくないからニュースは見ないという。桂さんもロハスって情報をいかに取らないかで意外と実現できるんじゃね?ロハスって言って雑誌買うって何か変じゃないか?という。西山さんの話もよくわかるし。
かと思えばgreasemonkeyとか使ってwebブラウジングをカスタマイズしたり、もの凄い数のRSSを速読したり、twitterで気軽におしゃべりしたり、reblogしたり、tumblrでどんどんスクラップしたりという人達もいて、今まで自分が考えてた「情報を受け取る」とか「発信する」とか、「ものを作る」とは違う何かを体験してる気もする。
「世界ってもしかするとこうかも、ってのが一枚の絵なり写真なりに収まってたらそりゃ本とか読まなくなるかもね。アーティストの仕事ってのはそういうのもあるんじゃないかな。」ってのは講義の中で桂さんが言ってたことだけど、多分そういうのを敏感に感じ取ってる人達がそれぞれのやり方で色々やってるんだと思う。批評文より雄弁なはてなブックマークがある気もする。ブックマークDJもリアリティあるし。
個人的にはtwitter始めて、全然知らない人と「はじめまして」もなく話せるようになった。多分誰もが考えたと思うけどあんまり実行してない、道でいきなり知らない人と何気ない話したっていいじゃん、ていう感覚。チェルフィッチュの「三月の五日間」みたいな、名前とか聞かないで、色々始まっちゃう感じ。
1 件のコメント:
ちなみに桂さんの本は牛若丸出版から出るらしいよ。超期待。
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