まぁ、のんびりなもんで、地元は今が桜満開。一足先に都へ行った皆がもう次に向かって進んでる頃、花見だの何だの。
だから流行とかも遅れるのかもしれない。
朝に親を見送って犬の散歩、昼はウキウキウォッチンしながら御飯食べて、夜に親が帰ってくる頃また散歩して、残りは勉強。高3みたいなライフサイクル。
今日は久しぶりに登校して、前林さんと面談。少しずついい方向に進んでる。今月で一気に仕上げたい。
「今読むと混乱するから、時期が来たら教える」と言われてた参考文献。時期が来た。
Amazon.co.jp: 芸術の設計—見る/作ることのアプリケーション: 岡崎 乾二郎: 本
少しコピーして、読ませてもらった。
コンピュータを使って、誰でも簡単に音楽とかグラフィックが作れるようになった。僕もできるようになったけど、他の人もできるようになった。コンピュータを表現のツールとして使うことで、一般化するものと、しないものは何か。
一部を引用すると、
少なくとも、ほとんどのミュージシャンたちと同じように先ほどあなたが行った、ガレージバンドのようなDAWソフト上で、素材をフィーリングにまかせていじくり回すというやり方だけでは、先へ進めないことは確かだ。自明のものとして取り扱っていた記録システムやインターフェースなどの技術をいったん表面化させ、その組み立て方を解明し、さらにはそれらの組み替えを行うこと。すなわちプリセットの技術をカスタマイズする手段を会得しなければ、前に立ちふさがる壁を突き破ることはできないだろう。DAWは単一のソフトウェアに見えるものの、実は複数の技術が一つに束ねられることで成立しているからだ。
ちょうどこの内容と対応していて、僕が論文で一番言いたいことが、久保田さんの「消えゆくコンピュータ」に書かれている(10年前の本だよ)。
システム工学的な、マン・マシン・インターフェイスのイメージでもなく、また、見えない情報や知識に形や色を与えていく、というプロダクト/グラフィック・デザイン的なイメージでもなく、それは「言語の経験」であり、同時に「経験の言語」をデザインすることでもある。そのために、トップダウンで決められた、定型的な構造や仕組みは必要ない。むしろ、インターネットと同じように、最小限の単純なガイドラインでつくられた、ゆるやかな場の中で、さまざまなインターフェイスが、同時多発的に生まれ、それらが相互に干渉し合いながら、並列的に変化し続けるイメージこそが、インターフェイスというランゲージのデザインの、一つのありようではないだろうか?
sonicodeでは画像を音に変換した訳だけど、文字を入力する機能、画像を表示する機能、画像を解析する機能、数値を元に音響を生成する機能、それらを操作するツマミやボタン、といったような要素の組み合わせから成り立っている。これらは最初から一緒だった訳ではなくて、既存のものを解体して、組み替えて、再びパッケージングしている。
僕は、この作業が久保田さんの「インターフェイスというランゲージのデザイン」に対する一つの答えになっているんじゃないかと思っている。
既にある、沢山の技術の断片をうまく組み替えて自分のツールを作ること。作品やアプリケーションでは既に多くの先行例もあるし、自分もずっとそうやってきた。初めてコンピュータを触って何かを作る、というのではなく、一通りのリテラシーを身につけた人がどういうアプローチを取り得るか、という方法論。これをどこまできちんと検証可能な言葉で説明できるようになるか、が課題。
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